
瞑想によって
「心の道徳、徳育」を養う
「瞑想を実践すること」は
「心の道徳、徳育を養う」こと
唐突に書いてしまいましたが
順を追って紐解いて説明いたします。
世界は長い時間をかけ
人類によって発展してきました。
言い換えれば
人間によってあらゆる「物質の成長」をしてきたと言えます。
しかし争いや犯罪などを含めた
人災は「物質の成長」とは関わらず尽きることはありません。
それはなぜなのでしょうか。
それは
「物質の成長」はしていても
人々が「精神の成長」をしていないからです。
「物質の成長」…とは
すべての物的なものや、
科学的な発展や、技術的な進歩なども含みます。
「物質の成長」を否定しているのではありません。
「物質の成長」は
人々によってもたらされます。
ですが
「物質の成長」を
“どう活用するのか”…
もまた
人々によるものです。
もっと詳細に表現すると
“物質の活用方法は「人々の心」”によるものです。
「心」とは「精神」のことです。
「精神(心)」が「善い方」に向かっている人々は
物質を「多くの人の助けになる善い活用方法」ができます。
精神がそうでない方向に向かってる人々は
多くの人を苦しめる使い方ができてしまいます。
例えば
人類は火を発見し爆発物の技術を発展させてきました。
爆発物は物質を成長させたものです。
その爆発物を、
掘削作業などの作業効率をあげるために使用し、
多くの人の生活の助けになる使い方ができます。
しかし
爆弾兵器などの人々を苦しめることに使うこともできてしまいます。
爆発物に限らず
すべての物質は
使用する「人々の精神(心)」によって
その使い方は善くも悪くも変化します。
このように
物質の発展は「人々の善い精神」が伴うことで
より善い社会を生み出すことが可能です。
いま私たちに必要なことは
「物質の成長」ではなく「精神の成長」が必須なのです。
「精神の成長」がなれば「物質の成長」だけで人々が幸せになることはありません。
その「精神の成長」を育むことが「心の道徳」を養うことです。
瞑想をすることで
「心の道徳」が可能です。
瞑想をすることがどうして
「心の道徳」になるのか
を説明してまいります。

人生をどう使うのか
「物質の成長」によって
自分をどんなに満たそうとしても
私たちは満足することがありません。
満足することのない「物質の成長」を求めて
次から次へと活動することに
大切な人生を費やしてしまってはないでしょうか。
なぜ「物質の成長」だけに時間を費やしてしまうのでしょうか。
多くの人々は
「物質の成長」によって幸福を満たそうとします。
結論からお伝えすると
「物質の満足」では「精神の満足」を得ることはできません。
物質とは色々ありますが
お金や物的な手に入るもので
考えると想像しやすいかもしれません。
例えば
お金をたくさん手に入れることで
不安に対して安心感を得たいと考えています。
物質を得ることによって
一時的な安心感を得ることは可能です。
しかし
「物質を得ることの安心感と引き換え」に
「手に入れた物質を失う不安」を同時に抱えることになってしまいます。
「物質を得たことの安心感は一時的」でしかありません。
満足することのない「物質の成長」を求めて行動し、
さらに
引き換えに抱える「不安」がある状態は幸福と言えません。
しかし多くの人々は
物質の成長や満足によって精神の平安が得られるとの
「誤った教育や世間の風潮」によって
そう思い込んでいることが多いのではないでしょうか。
満足することのない「物質の成長」を求める選択ではなく、
「精神(心)の成長」へ向かう人生とは
何かを理解することで
「自らの人生をどう使うのか」の選択が
初めてできるのです。

「心の平安」こそ「最上の幸福」
「精神の成長(心の道徳)」によって
どこに向かう人生を歩み進めるのでしょうか。
人類を始め、
全ての生き物にとって
「心の平安」こそが最上の幸福である
と理解することが必要です。
「心の平安」とは
心が落ち着いている状態で不安や恐れがないことです。
私たちは生命が脅かされ、
心に不安や恐れを抱えている状態にいるときには
幸福を感じることはできません。
それは
人類だけでなく、動物、昆虫などの
全ての生き物は共通して
命が脅かされる状況は望んでいないのではないでしょうか。
安心して、穏やかで平静な心を持てること
が「心の平安」です。
あらゆる生き物にとって
「心の平安」
こそが
「最上の幸福」です。
「精神の成長」なしに「物質の成長」だけに頼って
「最上の幸福」を満たすことはできません。
それは
これから自らの人生をどのように
歩み進めるかに大きく関わってきます。
「心の平安」による
「最上の幸福」に向かう人生は誰でもできる選択です。

「最上の幸福」に向かう「徳育」
「徳を積む」という言葉は
日本では日常で使われているほど馴染みがあり
ご存知の方も多くいらっしゃるでしょう。
それはお釈迦さまの教えのひとつです。
では「徳を積む行為」とはどういうものでしょうか。
お釈迦さまが教え伝えた
「徳を積む行為」とは
先ほどお伝えした
すべての生き物が
「最上の幸福」の「心の平安」に向かうための行為が
「徳を積む行為」です。
具体的には
お釈迦さまは
「瞑想によって自らが「心の平安」に向かうこと」は
高徳の行為であると伝えました。
瞑想によって徳を積むことは「人のためにする行為」とも同義語なのです。
それは
瞑想を実践し「自らの心を自己洞察すること」によって
自ずと「人のために役立つ行為」につながるからです。
「自らの心を平安」に向かわせることで
自ずと周囲にいる人達にも善い影響を与えます。
それは
「自らの心が平安」に向かうと
「人のために役に立つ行為」が自然とできるようになるからです。
お釈迦さまは精神の成長を完成させ
「自らの心を平安」にされました。
それからの45年間の生涯を
目の前の人が「心の平安」を得ることができるように
その実践法を教え伝え
生涯のすべてを人のために使いました。
まず
私たち一人ひとりが
成すべきことは
「自らの心が平安」に向かうための、
「自らの心を知る」自己洞察の瞑想実践こそが
高徳な行為であり全ての出発点でもあります。
繰り返しになりますが
「自らの心が平安」に向かうと
「人のために役に立つ行為」が自然とできるようになるからです。
人々は支え合って生きています。
人のために役に立つ行為は
人々の支え合いや、思いやりの育みです。
人々だけでなく、
存在する全ての生きているものは
支え合って存在しています。
全ての生きているものへの
役に立つ行動は
支え合いや思いやりの育みの行為です。
それが「徳育」です。
瞑想実践をする中で
目の前に困っている人や生き物がいれば
支え合い、思いやりの行動をしてみましょう。
それは相手の心が平安に向かうだけでなく
自らの心もまた平安に向かうための大きな助けになります。
「徳を積む」と一言で表現しても
そこには多くの内容を含みます。
まとめると
自らの「心の平安」こそが
「最上の幸福」です。
その「心の平安」に向かう人生の選択をする道が
「道徳」です。
全ての生き物が「心の平安」へ向かう
精神(心)を育む行為が「徳育」です。
「最上の幸福」「道徳」「徳育」、
は全ての出発点です。
それらを育む
「瞑想実践」の方法は
お釈迦さまが伝えてきた教えです。